中国FAQ
中国が大帝国で有り続けられた理由を教えてください
地方は分立しなかったの?
東三省が設置される前は中国東北地域はどういう扱いだったの?
中国の歴史が皇帝の存在を必要とした理由とは?
冊封を行うメリットとは?
中国の歴史が武官よりも文官を重んじた理由とは?
正史の順番を教えて
徐福は結局どこに行ったの?
「王侯諸将いずくんぞ種あらんや」の意味は?
倭人が中国本土に住んでいた?
渤海に史書はなかったの?
李淵は青い眼?
鄭成功の父親とは?
清の西大后はなぜ改革を止めた?
満州民族って何系?
華国鋒はなぜそのすぐ権力の座から下ろされた?
孔子の子孫だらけの村?
なんで中国はあんなに弱いのに『眠れる獅子』と呼ばれていたの?
Q:
どなたか中国が大帝国で有り続けられた理由を教えてください。
A:
漢文が多言語・多文化の広域社会のコミュニケーションツールの役割を
果たしたってのがあるんじゃないでしょうか
俗に、ヨーロッパは山が多く複雑な地形をしているので、ほうっておくとどんどん政治的に地方が分裂する。
逆に、中国は平坦な土地であるから、わざわざ長城をこしらえておかないと、自然に政治的にまとまっていく、という説があります。
また中国の場合、他の文明圏から比較的孤立しているため、他の文明圏との戦争で荒廃することがほとんどなかったことも、大きな原因と思われます
Q:
中国では地理的に関中、漢中、四川、福建などの地方は分裂するはずではないか?
A:
実際、漢中や四川といった地域は中央の力が弱まった際に
地方軍閥の反乱拠点となったんじゃなかったっけ?
蜀なんかいい例だね。
Q:
東三省が設置される前は中国東北地域はどういう扱いだったんでしょうか?
あなたは朝食を逃したときに何が体にどうなりますか?
A:
北京遷都後も「陪都」とされ、
戸・礼・兵・刑・工の盛京五部が設置されていました。
盛京(奉天)将軍、吉林将軍、黒竜江将軍が八旗の指揮、
東北への人口流入をふせぐ関所の管理を行っていました。
人口流入についていうと清朝は「封禁」といって人口流入禁止政策をとっていましたが、
現実には1700年ごろには開原、18世紀半ばには吉林、
19世紀半ばには松花江下流域にまで入植が進んでおり、
20世紀始めには「丈放」という全面的な土地払い下げが行われました。
清朝はアヘン戦争以後、行政機構の再編をはじめますが
東北では、以上のような人口増加を受けて東三省が設置されるにいたります
Q:
中国の歴史が皇帝の存在を必要とした理由とは?
A:
儒教の影響と考えられる
徳のある人が国を纏めれば、その国は太平となる(=有徳思想)という思想がある。
その徳のある人とは、天の徳を身につけた皇帝のことである。
Q:
冊封を行う双方のメリットを教えてください。
A:
中国にとっては周辺国を皇帝の家臣と位置付けることで間接的に支配でき、
周辺国にとっては強大国である中国と戦わずに、
むしろ、それを利用して国内を支配できるところにメリットがありました。
(基本的に冊封を受けても中国は周辺国の内政には不干渉でしたし)
ここで、周辺国は皇帝の家臣として産物を献上することが決められました。
これを朝貢といいます。
一方、中国からは下賜という形で品々にを送りました。
朝貢された品々より、下賜された品々の方が多かったこともあったようです。
周辺国では朝貢する権利をもとめて勢力争いが起こるほどでした。
(このように朝貢による品物のやりとりが貿易としての側面をもったことからこれは「朝貢貿易」と呼ばれています。)
Q:
中国の歴史が武官よりも文官を重んじた理由とは?
A:
儒教の影響と考えられる
儒教は、肉体労働を蔑視する傾向があるから
Q:
誰か中国の正史の一覧を貼ってくれないか?
中国史オンチなのでさっぱり分からん。。。
史書→漢書→後漢書→三国志→??
これしかわからん。。
A:
何が私を含めることはできませんので、私はあなたのために書き込みたい
史記、漢書、後漢書、三国志、晋書、南史、北史、新唐書、新五代史、宋史、遼史、金史、新元史、
あと時代がかぶるのは
宋書、南斉書、梁書、陳書、魏書、北斉書、北周書、隋書、旧唐書、五代史記、元史、
明清時代については
明史稿、明史、清史稿、清史、
Q:
秦の始皇帝に不老不死の薬を取ってくると言って
大船団で出発するも消えたという伝説がある徐福って、結局どこに行ったの?
A:
「史記」の記載では徐福の到着地は必ずしも明確には特定されていません。
しかし後代になって日本の情報が蓄積されるようになり、渡日説が出現するようになったものでしょう。
五代末宋初の僧侶の義楚の著した「釋氏六帖」には徐福は童男童女各五百人を率いて、
日本に渡航してそこに止まった、今でもそこの人物は長安と同じだと書いてあり、
また初めて富士山のことを紹介し蓬莱山であると説いています。
ところで徐福が渡海した時点では始皇帝による焚書坑儒は実行されておらず、徐福は支那本国では亡失してしまった古書を日本に大量に持参していった、
その国では貴重な書籍が現在も保存されているという伝説も発生しました。
Q:
後漢時代の農民反乱のセリフ
「王侯諸将いずくんぞ種あらんや」の意味はなんなんですか?
A:
秦末の陳勝・呉広の乱だったと思うんですけど。
正しくは「王侯将相いずくんぞ種あらんや」で
王・諸侯・将軍・大臣だからといって血筋が庶民と別格だと言えるのか?
って意味だったような
Q:
中国の史書&金石文に出てくる倭人の記述は、どんなのがあるのでしょうか?
紀元前何百年に中国東北部に倭人がいたって聞いたんですけどほんとなのでしょうか?
A:
「魏志・倭人伝」のが詳しい記述としては一番古いのかな?
「論衡」に「倭」という「蛮族」が出てくるのが、「倭人」の最初の記述らしいけどこれは「大陸に住んでいる『倭』」という説もある。
(というか、その方が自然な解釈か?)
周の成王の時のこととして倭がでてくる
誰が鳥インフルエンザの最近のニュースは2012年かもしれ
大陸の「倭」はおそらく現在の中国海岸部(山東省辺り?)に住んでいた原住民で、
彼らに似た外見・生活様式だった当時の日本人をその同類と見なして「倭」と呼んだのかも知れない。
Q:
渤海には史書は無かったのでしょうか?
A:
史書は…渤海国自体の人間による史書はなかったと思う
Q:
唐の高祖李淵は青い眼だったって本当?
A:
李淵の眼は黒ってゆうか茶色です。
唐は胡と言われますから、トルコの血もだいぶ混ざっていたようです。
唐代の胡旋の舞に、捲毛碧眼とありますから
巻き毛や青い目は珍しかったでしょう。
イギリス人でも、ドイツ人でも完全な金髪碧眼は、
それほどいませんから。
Q:
鄭成功の父親とは?
A:
名前は鄭芝竜(ていしりゅう)
明末の遺臣。字は飛黄。通称、一官・老一官。福建の人。
日本に来航し、肥前平戸に居住。田川氏の娘と結婚。
成功・七左衛門の2子がある。台湾を根拠地として
密貿易に従事、1628年明に招かれ都督まで進んだが、
46年清に降り、族誅された。「国性爺合戦」に脚色。
(1604〜1661) 広辞苑
ということで、当時かなり有力な貿易商です。
Q:
清の西大后に関してですが、どうして彼女は、政権を握ってから、中体西用を
廃止してしまったんでしょうか?
あのままの状態では、欧米や日本に蹂躪されるのも十分理解してたと思うんですが。
A:
西太后は、義和団事件のあと、康有為らが主張していた政策の実施に全力を挙げてとりくんで行きます。
清末の「新制」と呼ばれる一連の措置がそうです。
しかし西太后晩年には、国会として諮政院が、地方議会として諮議局が各省に設置されました。
また、各省に資金を拠出させて洋式軍隊「新軍」も設置されました。元来、立憲派の主張していた政策です。
Q:
どっかのサイトで満州民族はモンゴル系とか書いてありましたが、
違いますよね?ツングース系でしたっけ?
A:
満洲族は南ツングース系です。
Q:
四人組追放に大きな役割を果たした華国鋒は、
なぜそのあとすぐ権力の座から下ろされたのですか?
ケ小平に比べて権力基盤が弱かったのはわかりますが、
それにしても……という気がするのですが。
A:
軍部に支持基盤がなかったため、
支持基盤があったケを復活させざるを得なかった。
軍の支持がないと、政権は維持できません
Q:
この前テレビで中国の孔子の子孫しかいない村を取材してたんだけど、
たしか台湾にも孔子の子孫がいたはず・・・
どういうこと?
A:
孔子の子孫は歴代王朝に優遇されてきたので、
ふえてふえて中国にはそれこそ村まるごと孔子の子孫ってのがいくつもある。
総本家クラスの家柄も多くて、台湾ににげたのだけがすべてではない。
Q:
なんで中国はあんなに弱いのに『眠れる獅子』と呼ばれていたの?
A:
まずでかいから。
あと西洋人の中国に対する憧れは当初相当なもんだった。
茶・陶器・絹などの品を昔から作り広大な領土を問題少なく統治している国として随分と買われていた。
19世紀には軍事力で西欧と差が開いたが
中国が西欧的なものを吸収したらすぐさま西欧は抜かれるのではないか、という危惧は西欧側にはあった。
これの危惧=「眠れる獅子」。
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